カテゴリー: 2021紹介パンフ

  • 滑雪部&野球部

    滑雪部&野球部

    文責:奈良県民

  • トランス女性の女性専用スペース利用の問題について

    トランス女性の女性専用スペース利用の問題について

                                             上田雅子

     昨今、Twitter上でトランス女性への差別的な言説が非常に溢れ出てきています。きっかけは2018年の7月にお茶の水女子大学が戸籍上の性別に関わらずトランス女性を受け入れるということを表明したことで、女性専用スペースをトランス女性が利用しやすくなることへの懸念がTwitter上で盛んに言われだし、トランス女性への誤解と偏見に促進されて瞬く間にトランス女性を標的にしたさまざまな内容の差別的なツイートがTwitter上にあふれるようになりました。今回はトランス女性当事者である私がトランス女性の女性専用スペース利用の問題について述べます。

     まず、トランス女性とは何者でしょうか?簡潔に言うと、生まれた時に女性として性別を割り当てられなかったが、社会生活の過程で女性として過ごすようになった人のことを指します。女性として生活している人がシス女性(※トランス女性でない女性のこと)と同じ権利を有するのは原則として当然のことです。シス女性が持っている権利をトランス女性が持てないということはトランスジェンダーの人間への差別に他ありません。ですので、この社会に性別で利用資格を区切られた空間がある以上、トランス女性が女性専用スペースを利用できるのは至極当然のことであり、それを拒否することは、トランス女性の女性としてのジェンダー・アイデンティティを否定する暴力に他なりません。

     今現在、Twitter上で流れているトランス女性差別言説では、トランス女性を女性として認めないという当事者にとって非常に侮辱的な、あるいはトランス女性に女性専用スペース利用を認めないのは差別ではなく区別であるといったさまざまな差別の問題が語られる際に差別者が自身の差別性を言い訳するために使う論法が使われています。その上で一口に女性専用スペースといっても具体的にどんな場所のことが議論の対象にされているのでしょうか?

     Twitter上でよく話題にのぼるのは、公共の場所に設置された女子トイレと銭湯・温泉の女湯のことです。何がどう問題だとされているのかを見ていきます。

     まず、女子トイレについては、よく言われるのが、1点目に盗撮などの性犯罪目的で女装して侵入してくる男性とトランス女性との見分けが外見上つきにくく、トランス女性と偽って女子トイレに侵入してくる者が急増する、2点目にたとえトランス女性だとしても外見が男性に見える人が女子トイレに入ってくるのがシス女性に恐怖を与えるといったものです。

     これらの懸念について私なりに答えますと、1点目についてはあくまでも性犯罪が起きていることが問題なのであって、トランス女性の権利制限を行う正当な理由にはなりません。やるべきは盗撮などの性犯罪を防止するための工夫をトイレの構造を変えることなどを含めて実施することです。トランス女性の権利を後回しにすること自体が差別です。また、性犯罪を起こす可能性がある人間が男性に限定されて語られるのも問題です。誰もが性犯罪・性暴力の加害者になる可能性が考慮されていません。シス女性で盗撮などの犯罪を行う目的で女子トイレに侵入する人はまずいない、などとは言えないはずです。2点目については、身体的な特徴を理由に他人を排除することを正当化する論であり、非常に差別的です。そしてそもそもトランス女性の多くが自分が外見・容姿の面で女性に見えるかどうかを日常生活で問われ、自身も悩んでいるという現実がこの問題の議論の際に何ら考慮されていません。女子トイレ利用でトラブルが生じること、女装した性犯罪者と同一視されることを懸念しているのが他ならぬトランス女性自身なのです。女性であるにも関わらず外出の際に女子トイレを使うことにもいちいち気を使わざるを得ない。この現実こそが問題とされるべきなのです。

     次に女湯の話をします。Twitterでよく言われるのは、戸籍上の性別変更の要件から性別適合手術を受けていることが除外されたら、性別適合手術を受けていない、いわばペニスを有したトランス女性が銭湯や温泉の女湯に入ってくる、だから問題だというものです。まず私から言わせていただくと、身体的特徴を理由にして他人を排除するということがそれ自体差別的で、言語道断です。また、トランス女性は自分の身体に男性と間違われる特徴があることを非常に懸念するものです。ですので、現状でも性別適合手術を受けている、外見が女性に見えるトランス女性でないと自由に女湯に入れないのが現実です。トランス女性がトラブルに巻き込まれない形で銭湯や温泉を利用できるように施設の構造を変えることや利用方法などの工夫こそが求められているのです。

     最後に私から言わせていただくと、Twitter上でのトランス女性への差別言説の氾濫も公共の場所の女子トイレや銭湯・温泉をトランス女性が利用しづらいのも、彼女たちの存在を不可視化し、シスジェンダー中心の社会を作ってきたシス側の責任です。マジョリティであるシスジェンダーの人間の責任で差別をやめさせ、社会を変えるべきです。

  • 大学生とアイデンティ

    大学生とアイデンティ

    文責:スワンプマン

    受験生にとっては受験前後の数年は、環境が大きく変化し、自分の意志で選択をする必要に迫られ、多くの大人から指図なり説教なりを嫌というほど聞かされているかもしれない。

    私からのささやかなアドバイスは、「大学の間は親や教師などの周りの大人から受ける干渉が少なく、自己の在り方や他者との関わり方についてゆっくり考える良いきっかけだから、教養科目として発達心理学、特に青年期の発達心理学などを学ぶ事をおすすめしたい。」

    ここでは、1回生で受けた教養講義をベースに私が考えた、青年期のアイデンティティ危機とその立ち直り方について少し語ろう。アイデンティティ危機とは、大雑把にいうと「自分がかけがえのない自分としてこの世界に生きる意味を感じなくなる」という危機である。

    まあ自分語りのようなものだから、納得いかない点は是非自分で答えを見つけて欲しい。

    自分の存在意義を考える時、人は何かしらの基準を持って自分の良い部分を評価するように思う。例えば“英語が得意”だとか“人付き合いがうまい”だとか。

    この基準を“存在意義を測る物差し”と呼ぶことにする。

    物差しは何でも良いわけではなく、自分から見て「より存在意義がありそうな他者」が承認してくれそうなものでなくてはならない。

    また、“物差し”で測るには対照物が必要である。つまり、「ある点で周りの多くの人間より優れている」と感じる事で“物差し”は機能する。”物差し”を持てない状態は自己肯定感の喪失につながる。

    高校生までの生活において、自分の“存在意義を測る物差し”は、主に周りの大人社会からの評価であり、具体的には勉学や部活動における成績、はたまた目指す大学や企業だったりする。教育者側から受験生を見ると、(教育者側の利益や満足のためという立場も相まって)受験生のやる気を出す為に、模試の点数を見て褒めたり叱咤激励したり、「頑張るといい事があるぞ」と言い聞かせたくなる気持ちも分かる。受験生というのは周りの大人からの“物差し“の押し付けが最も激しくなる時期の一つだと思う。

    一転、大学に合格して一人暮らしすると、驚くほど周りの大人からの干渉はなくなる。講義に遅刻したり欠席したりしても誰にも怒られないし、テストの成績が悪くても単位を落としても怒られない。もちろん100点を取っても褒められない。

    周りの大学生は皆優秀に見える。よくわからない講義の内容を、みんな理解しているように文句も言わずノートに書き写している。附属図書館に行くといつも多くの大学生が自習席にかじりついている。

    それに大学生になると誘惑が増える。酒や煙草が買える年齢になるし、バイトで稼いで趣味に金を投じることもできる。それらが一概に悪いとは思わないが。

    こういった観点から、大学生は“物差し”を押し付けられないばかりか、勉強の動機維持が難しく、挫折も多く、今まで与えられた“物差し”では存在意義を感じづらくなる時期となる。

    ここに至り、「果たして自分は真面目に勉強することで幸せになれるのか?」「周りの大学生より自分は優れていないのではないか。」「そもそも何のために勉強しているのか?」という疑問に突き当たってしまう。そして悲しい事に、多くの受験生、特に京大志望は、勉学の成績を自己の“存在意義の物差し”にして努力してきただろうに、これらの疑問はその存在意義を支えてきた柱を自ら掘り崩す事になる。これを突き詰めすぎると、文字通り自分の首を絞めてしまう。

    さて、どうすれば立ち直れるだろうか。

    私の答えは、「“物差し”を自ら考えて更新する事」これに尽きる。

    これまでの人生で与えられてきた“物差し”は絶対普遍ではない。

    君は周りの大人から承認を得るために勉強するべきなのか。

    そもそも周りの人間は、君が自分自身に向ける、よもや自らの首を絞めてしまうほどの激しい存在意義の問いに、興味があるのか。

    親や教師などの大人は、得てして大人自身の考える常識的価値観を“物差し”としてこどもに押し付けるものだ。さらに悪い事に教育はこれを成績という形で「小学校のテスト」から「良い大学、良い就職」まで制度化されている。「良い成績は良い人生を与える」という言外の迷信を“常識”としてこどもに植え付けるように、親や教師にも植え付けている。

    これはせいぜい国家や社会の功利(得)に適った枠組みであり、絶対普遍の真理ではない。

    ここに至って君は、社会のあちこちに蔓延る「善と悪」と「得と損」との混同を峻別するべきなのだ。

    例えば酒煙草に溺れることは善か悪か?答えはどちらでもない。酒も煙草も、自分の意志で自分の健康を一部犠牲にして快楽を得るものだ。自分が何歳で死にたいかは自己決定の範疇であるべきだ。

    遅刻は善か悪か?答えはどちらでもない。ただ遅刻をしない方が自分も相手も得をする事が多いだけだ。遅刻したら謝ればいい。

    勉強を頑張る事は善か悪か?答えはどちらでもない。自分が将来何をしたいか、そのためにどの勉強を頑張る必要があり、どれはテストで60点取って単位だけもらえればいいか、それを損得勘定で見定めればいい。

    自分は何のために生きるのか?答えはわからない。ただはっきり言えるのは、テストでいい点取るためでも、他人から内実とかけ離れた「頭の良い人」や「善人」「お金持ち」のように見られて虚栄心を満たすためでもない。矛盾しているようだが、この問いへの答えを得ようとする事が生きる目的の1つかもしれない。

    こうして考えてみると、少しは気が晴れただろうか。

    大学生になったらぜひ発達心理学をかじってほしい。哲学や倫理学もかじると、役に立つかもしれない。

    そして自分の“物差し”を焦らずゆっくり作って欲しい。大丈夫。君ならきっと自分で考えられる。

  • 私とヨガの吉田寮生活

    私とヨガの吉田寮生活

    文責:最近<画廊づくり>をしている、きもの

  • 大好き!放課後ティータイム

    大好き!放課後ティータイム

    文責:鹿児島ちょっと寂しくないbot